高原朝彦・吉本裕美子
electric & acoustic
日時: 2012年5月1日(火)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 高原朝彦(g) 吉本裕美子(g)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)
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即興演奏の場合、デュオというフォーマットは、ソロ演奏ではなく、トリオ以上のグループ演奏とも違う特権的なもの、演奏家が自由に選ぶことのできるさまざまな音楽スタイルだとか演奏の条件のような選択肢のひとつではなく、日頃私たちがそのように思っている、即興する演奏家はどんな形式でも採用できる自由な存在だという先入観を洗いなおし、一度ひっくり返してみるような試みの場であるように思われる。あらじめ用意された音楽ジャンルの外側に立とうとするフリー・インプロヴィゼーションであればなおさらのこと、それはソロ演奏を準備の場とするような絶対的な条件を備えたものであり、端的に言うなら、フリー・インプロヴィゼーションの起源と呼べるようなものだと思う。たったひとりの共演者──即興演奏の歴史を繙けば、彼/彼女は、友人でもあれば共犯者でもあり、ときには「汝の敵」ですらあるということがわかるだろう──の前に立つことによって、演奏家がソロ演奏以上に裸になる場といったらいいだろうか。「試みの場」というのは、そのような意味である。
喫茶茶会記で初のデュオ演奏に挑戦した高原朝彦と吉本裕美子は、コントラバスの池上秀夫も含め、日常的にお互いの演奏を聴いている即興サークルの仲間である。観客のあるなしにかかわらず、日常的に生きられているこの社会性は、職業としての音楽家ではなく、単独者たちによるある共同性の獲得として生きられているものであり、日本的な気づかいの濃密さのなかで、世間を狭くしたり、自閉的な袋小路に陥ったりする危険性をはらみながらも、基本的には、これまで演奏したことのない共演者を迎える準備も忘れられていないという点で、つねに開かれたものであり、他者を排除するようなクローズドされたものではない。即興演奏に限らず、こうした大小の音楽サークルは無数に存在するだろう。フリー・インプロヴィゼーションの起源であるようなデュオの関係性は、私たちのこうした社会環境のなかで、胸を貸し、胸を貸される先輩・後輩的なものに変質しがちである。その意味では、即興のデュオ演奏をするとき、私たちは、そのようにしている当事者だという自覚のあるなしにかかわらず、日本的な社会性のなかに、まったく日本的ではない関係性を埋めこむような実験をしているのではないかと思う。先輩・後輩の関係に落ち着くほうが、日本人にはずっと快いはずだ。即興演奏は、そのようではない(という否定的表現でしか言えない)新たな関係性を、私たちに要求している。
アコースティックな音色に無限の変化を求め、瞬発的なスピード感を生命とする高原朝彦のギター演奏と、メロディはもちろんのこと、音色にせよフレーズにせよ、あらゆる音の形というものから離れ、サウンドをある種の浮遊状態に置きながら、エフェクター類を操作してそこに変化を与えていく吉本裕美子のギター演奏は、すべての点において対照的である。前者が形のある音楽ならば後者は形のない音楽であり、前者が速度のある音楽ならば後者は速度のない音楽であり、前者がポリグロットの音楽ならば後者はノングロット(実際にこんな言葉はない。あらわれとしては、モノグロットをマイナスの方向に解体するベイリーの「ノン・イディオマティック」に近い感覚だろうか)の音楽であり、前者が自己肯定的な音楽ならば後者は自己否定的な音楽である、というように。デュオは必然的にソロ+ソロの演奏にスプリットされ、ひとつの場所にいながら、別々の音の次元を動いていくものになった。それでも高原朝彦は、持ち前の優しさと配慮から、共演者を前面に誘い出すようなフレーズやリフを、演奏のあちらこちらで彼女に投げかけていた。しかしそれ自体が、形のある音楽だけがとることのできる構造のなかへの誘いというべきものだった。
エレキギターを演奏した第二部では、リズムも非対称で、形をとることそのものから離れている吉本に、高原は彼女のなかにある(はずの)ロックの記憶を喚起するような激しい演奏をした。エフェクター類を接続しないアコギから、いつも弾き慣れている赤のエレキへと移動した吉本も、それにほとんど身体的に反応してしまう一面をのぞかせていた。トレードマークの10弦ギターからアリアのシンソニードに持ち替えた高原は、ピックも新調して、ふだんあまりすることのないエレキギターの即興演奏に臨んだ。ギター本体をアンプに近づけてハウリングさせたり、ギター弦を弓奏したり、エフェクターを操作してエレクトロニクス風の演奏をしたりと、40分間の演奏のなかでアプローチはめまぐるしく変化したが、彼の耳の嗜好が向かう先は、やはり音色にあるようだった。構造というものをもたないため、吉本の演奏には始まりも終わりもないのだが、このため共演者の高原は、やや一人芝居の感があるのをじゅうぶんに承知のうえで、前半・後半ともに、激しい演奏でライヴのクライマックスを演出し、クリシェでもあれば擬似的でもあるデュオ演奏の終わりを形作っていた。■
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喫茶茶会記