原田 淳+入間川正美+竹田賢一
日時: 2012年5月13日(日)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビルB1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金: ¥2,000
出演: 原田 淳(ds) 入間川正美(electric cello) 竹田賢一(大正琴、声)
問合せ: TEL.07-5082-7581(七針)
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チェロ奏者の入間川正美が声かけをして集まった即興トリオのライヴが、八丁堀の七針で開かれた。個々にデュオ演奏はしているものの、本トリオでのライヴはこれが二回目で、初回公演は、昨年の11月19日に、レトロな赤坂のジャズスポット「橋の下」でもたれている。メンバーは、大正琴の竹田賢一とドラムの原田淳という、いずれも入間川とは長い交流のある旧知の演奏家のふたり。この晩の入間川は黒いZetaの電気チェロを使っていた。どうやら最近の共演ではそうしているらしいのだが、電気チェロの採用は、竹田の大正琴の能力を最大限に引き出すことを目論んだもので、彼自身のソロ演奏や、舞踏とのパフォーマンス、あるいは新井陽子とのデュオなどでは聴くことのできない、ひと味違う即興へのアプローチを見ることができた。このあたりの呼吸を竹田ものみこんでいるのか、大正琴の演奏もまた、エレクトロニクス・サウンドへと解体したり、スペース・ミュージックを思わせる深いエコーのかかった飛翔に身を委ねるというような展開によって、(これは私が知っているかぎりでの竹田賢一ということになるが)かつての彼のイメージを打ち壊すような場面展開をいくつもしてみせた。このふたりの間の共闘関係が、トリオの要になっているといえるだろう。
ドラムの原田淳は、こうした共闘関係にあるエレクトリック・コンビを向こうにまわして、備えつけのドラムキットと持ちこみのシンバル類を使い、フリージャズのパルスのようなものではなく、ごく一般的なリズムを使って演奏した。ただそのリズムは、テンポやビートを出すためにあるのではなく、トーキングドラムさながらに、非対称のリズムによって共演者の演奏にコメントを入れるかのように、散発的に演奏されるものだった。おそらく原田は、あえてテンポを合わせないこと、ずらすことによって、共演者との間に意識的な距離をとりながら演奏しているのだと思う。それがトリオの枠組みを破壊することなく、その逆に、トリオが形作る音楽のトライアングルを広げるもの、寛げるものとして作用しているのは、やはり共演歴の長さからくる賜物なのだろうか。そのアンサンブルのありようの典型的なあらわれが、第一部の中盤に訪れた。電気的にエフェクトされたサウンドでミニマルなフレーズを刻み、チェロと大正琴がお互いを触発しあって演奏の速度をあげていく緊迫感のある場面で、原田はそうした流れに乗っていっしょに走り出すわけではなく、しかし同時に、まるで無視するというわけでもなく、音数が増え、また少なくなっていく小クライマックスになど関係ないというような顔をしながら、もう一段、強度をあげたサウンドを、散発的に散りばめていったのである。
アフターアワーズの時間に、入間川は(A-MUSIKのような?)バンド名を考えたいと言ったが、そのことは、トリオの即興演奏がその場かぎりのセッションではないことを意味すると同時に、<原田 淳 - 入間川正美 - 竹田賢一>という、即興演奏の領域ではお馴染みの固有名詞を並列するスタイルとも異なる関係性を構築したいということの表明になっていた。私たちは、まるでロックバンドのようなグループ音楽であり、結社のような結びつきであるものをイメージしたらいいのだろうか。響きの細部が際立つアコースティックな環境でのチェロ演奏とはまったく違って、エレクトリック化された入間川の演奏は、サウンド的には、はるかに単調なものに聴こえる。それはここで目指されている音楽が、個人よりもグループ表現に重点を置いていることからくるのだろう。一方の竹田賢一は、トレモロによるメロディアスな大衆性と、エレクトリック化し、同時にノイズ化することによって異物となった大正琴のサウンドのなかに、日本的とも、アジア的とも、アラブ的ともいえるような汎ミュージックの世界性を構築しようとしている。即興演奏をこうした世界的なヴィジョンと再結合できるかどうかが、このトリオの鍵を握るように思われた。
第二部の演奏には注文がついて、演奏の最初にアラビックなメロディをもつ竹田の「Sheep Year」を、また演奏の最後には、韓国の抵抗詩人・梁性佑の詩に竹田が12音階で曲をつけた「生きているうちに見られなかった夢を」を置いて、その間で即興演奏をするという構成がとられた。第一部が連続しておこなわれたのに対し、第二部は演奏の中頃でいったん音が消える瞬間があった。そこで最後の歌にいってもいいような場面で、もうひとつの即興セットが演奏され、ちょうどこの沈黙の間合いから、前後を折り返すような恰好で全体が構成されることとなった。薄氷を踏むようにして歌われる竹田賢一の歌は、歌の多くがそうであるような、なにがしかの共同体的な感情を代表するものでも、あるいはその逆に、誰も知らない極私的な感情を伝えようとするものでもなく、ましてや革命歌を批判的に再提示するものでもなければ、人々を革命的な事態に動員しようとするアジテーションでもない。それがもしなにかの働きを持つものだとしたら、これはA-MUSIKの音楽にも通じるものだが、先に述べたような、世界性へのインデックスというべきものなのではないかと思う。その歌の前に立った聴き手のなかに、なにかが問われたという切迫した感情を呼び起こす、そのような世界性へのインデックスとなるようなもの。■
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