2012年5月26日土曜日

高岡大祐チューバSOLO



高岡大祐SOLO
日時: 2012年5月16日(水)
会場: 東京/渋谷「Bar Isshee」
(東京都渋谷区宇田川町33-13 楠原ビル4F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: 投げ銭+order
出演: 高岡大祐(tuba)
予約・問合せ: TEL.080-3289-6913(Bar Isshee)


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 精力的な活動をしているチューバ奏者・高岡大祐の演奏を、これまでまったく聴かなかったわけではない。ずっと以前、音響派あるいは音響的即興がさかんに議論されていたとき、彼がサックスの松本健一やトランペットの田村夏樹と結成していた即興トリオ “ダイバー” を聴いたことがある(2004年10月)し、アラン・シルヴァの日本版セレストリアル・コミュニケーション・オーケストラに関島岳郎とのダブル・チューバで参加(2008年8月)していた彼が、チューバからチューバならざるサウンドを生み出すソロ演奏で、観客の度肝を抜く場面に遭遇したりもした。それなりの印象はあったのである。ただ、そのころの私は、音響的即興の典型的なモデルに、ミッシェル・ドネダの息の演奏やジョン・ブッチャーのインヴィジブル・イヤーを想定していたため、ダイバー・トリオに中途半端な印象しか持つことができなかった。というのも、彼らの演奏はあまりに健全的で、いってみるならば自己肯定的、「即興のパラダイムシフト」を帰結するような、即興をもってする即興演奏の自殺といった暗い側面を、まったく感じることができなかったからである。それが間違っていたというようなことではなく、そのようにしかありえない日本の状況が、音響的即興との差異を逆に際立たせていたということなのだと思う。即興を批評する基準はもちろんのこと、音を聴きとる耳のあり方そのものが激しい地殻変動を起こしていた時期で、ブームとしての音響派はたしかに去っただろうが、たくさんの演奏家を巻きこみながら、運動そのものは水面下でいまも進行中だと思う。

 チューバという楽器は象のように美しい。群盲象をなでるというか、楽器の各部分がさまざまな風景を描き出す建築物のようで、たたずまいがとても魅力的なのである。こう感じるのは私だけかもしれないが、バルセロナに建つ未完の教会サグラダ・ファミリアを連想させる。セルパン(蛇)と呼ばれる同系統の古楽器があるように、一本の長い金属の管を、蛇がとぐろを巻くようにぐるぐる巻きにして抱えられるようにしたもので、演奏者には大きな肺活量と体力が求められる。チューバ管の長さ、つまりチューバの大きさにはさまざまな種類があるそうである。ピアノでもコントラバスでも、巨大な楽器にはプリペアドがしやすいが、高岡大祐のチューバ・ソロも、サーキュラー・ブリージングや声の併用、マウスピース抜きの演奏といった特殊奏法に加え、この巨大な楽器に(ときにはその場の思いつきで)さまざまなプリペアドを施しながら演奏が進行する。しかしそれは、多彩な演奏テクニックを並べるだけのクリシェに終わらないよう、ありとあらゆることをしてみるといった挑戦に類するもので、チューバという楽器を脱構築するため、この楽器らしからぬ演奏を開発するという戦略ではないし、音響のみによる演奏といった特殊な実験音楽をめざしたものでもない。

 特殊奏法のオンパレードにより、チューバらしからぬ奇怪なサウンドが次々につづいていくということからするなら、あらわれは音響的即興にとても近いものといえるのだが、アグレッシヴな高岡大祐の演奏スタイルがもたらす全体的な印象は、どうもそのようなものではない。大友良英のマニフェスト「音楽家はただ音を出す無力な存在でいるべき」であるとか、Sachiko M の演奏を「引き算の音楽」と呼ぶような、即興演奏の制度性をクールに問いなおす音響派美学からも限りなく遠ざかっている。少なくとも、いまはその片鱗すらない。理解の鍵は、おそらく彼が息によるチューバ・サウンドだけでなく、声を併用する(ときにはメロディーを歌ったりもする)ところにありそうである。それはインスタントに複音のハーモニーやフラッター・サウンドを得る方法にもなっているのだが、それだけではなく、演奏者の身体をこの楽器と全面的にかかわらせるための積極的なアプローチと思われるからである。身体における過剰なるものの突出を、高岡大祐は、フリージャズのようにではなく(フリージャズを迂回するために)、このような彼ならでは方法によって表現しているのではないだろうか。それは音響的即興の真逆をいくものといえるだろう。あるいは音響的即興の定義を別のものに変えることを意味するだろう。

 前半後半ともに40分ほどのソロ演奏を、高岡大祐は、酸欠による昏倒もなしに、信じられないほどの肺活量で走り抜けた。ベルの方向を変えるためにチューバを持ちなおし、とぐろを巻いたチューバ管の一部をはずし、演奏中にピストンをゆるめ、また締めなおし(この日が初めての試みだったというが、ピストンをゆるめると息ができなくなり、無音のサーキュラー・ブリージングをするという奇妙な場面が出現した)、マウスピースをはずして息を直接楽器に吹きこみ、用意したフレームドラムを垂直に立ったベルのうえに乗せたり、ベルの周囲に斜めにあてたりしてサウンドを変化させ、さらにゴム紐で結んだ髪に挿してあった菜箸を抜き出すと、ベルのうえで震えているドラムの皮面にあててバリバリといわせたり、最後には、音程をチューニングする管の部分をゆっくりとスライドさせて、声との間でフラッター・サウンドを生み出すということまでした。ほんとうにありとあらゆることがなされ、これがソロ演奏では毎回異なるのだという。今日の演奏は昨日の演奏とは別のもので、おそらく明日の演奏とも別のものだろう。即興ヴォイスの領域は、「ヴォイス・パフォーマンス」という天鼓の造語によってスタートしたが、高岡大祐の演奏も、声つながりで「チューバ・パフォーマンス」と呼ぶべきものかもしれない。

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渋谷 Bar Isshee