2012年5月10日木曜日

カイドーユタカ・ソロ@阿佐ヶ谷ヴィオロン



カイドーユタカ
コントラバス・ソロ・コンサート
Yutaka Kaido: Contrabass Solo Concert
日時: 2012年5月9日(水)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: カイドーユタカ(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)


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 おもにジャズの領域で活躍しているコントラバス奏者のカイドーユタカは、ある企画がきっかけとなって、即興性を意識したソロ・インプロヴィゼーションのシリーズをはじめるようになった。阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンとの関わりは、5年ばかり前、ピアニスト三浦陽子とのデュオが最初というが、以来カイドー自身も自分のプログラムで出演するようになり、いまにいたっている。この晩のソロを聴いたかぎりの印象でいうならば、かつてのフリージャズがもっていたノイズだらけの肉体性といったものは、カイドーの演奏から影をひそめ、むしろその真逆のもの──最近流行の言葉を使って「草食系インプロ」と呼びたくなるような、繊細な感覚が横溢するサウンドでソロが構成されていく。もちろんこれは演奏がもたらすイメージに過ぎず、彼自身が草食系男子であるという意味ではない。心からの叫びであるとか前衛性といったようなギラギラしたものから遠ざかった演奏は、やわらかい部分ばかりで編みあげられたカイドーの内面の吐露のようなものであり、大声でなにかが主張されるというような性格のものではないため、音響的即興がそうであるように、聴き手の耳の積極的な参加が必要になってくる。

 あらためていうならば、音響的即興と呼ばれたもの、あるいはいまもそう呼ばれているものは、一過性のブームでもなければ、新しい音楽形式といったものでもない。音響的即興にまつわる言説は、そこで問題になった出来事を聴取論によって表現し、さまざまある要素のなかで、「聴く」というサウンド体験のレベルを特権化した。しかしそれは、音響派の文脈でいろいろな論者が語っていたようなこと──すなわち、演奏者よりも音の聴こえを重んじるという「唯物論」でも「サウンド・オントロジー」でもないだろうし、文学の領域で論じられた近代読者の成立といったテーマとくらべられるような、聴き手の位相を問題にするものでもなかったように思われる。そうではなく、おそらくそこで問われていたのは、具体的に私たちが聴いている音を背後で支えるもの(そのように聴かせているもの)、すなわち、音に対する私たちの感覚そのものの変質であり、それがけっして受け身の変化ではなく、ひとつの積極的な行為であるということを明確化するため、「態度変更」の言葉を使うのが適切となるような出来事だったように思われる。それがわかりにくいのは、ここに出現している感覚的な変化が、音楽形式や音楽スタイルの変化として可視化できるものではないからである。

 たとえば、カイドーユタカの演奏は、池上秀夫がしているような、フリー・インプロヴィゼーションの方向からするノイズ的アプローチとはまったく異なったものである。全体から受ける印象も、ジャズというよりむしろ室内楽とくらべられるような調和性に包まれたものだが、コントラバスから生み出されるサウンドひとつひとつは、あたかもインスタレーションのように並べられていくものとしてあり、従来のコントラバス・ソロとは異質なものだ。第一部では、二本の鉄の箸のようなものが演奏に使われたのだが、それもまた、たとえば齋藤徹がそうしたプリペアドな演奏から彼自身を思い切って異物化していくようなものではない。あくまでもサウンド・インスタレーションのひとつとして並べられていく。こんなふうにして、すべてのサウンドに対してニュートラルな態度をとることが、音響的即興が台頭してくるような時代の感性と共振したものに聴こえてくるのである。音に対する先入観を破壊するため、積極的に音響にフォーカスするリダクショニズム戦略というより、むしろサウンドを構築する欲望の喪失といったものが、広く浸透しているように感じられる。これで「草食系インプロ」のニュアンスが伝わるだろうか。

 ぽつりぽつりと断片的に提示される、まるで静物画を描いてでもいるかのような静かなコントラバスのサウンドが、ヴァイオリン奏者のイコンが店内のあちこちに掲げられている阿佐ヶ谷ヴィオロンの空間を、室内楽的な雰囲気で満たしていく。しっかりとした防音がほどこされていないため、ときおり外を通る人の話し声が聞こえる。雨の気配も雨音も、室内に容赦なく入りこんでくる。外界から遮断されていない環境が、アンプを通さないナチュラルなコントラバスの音を、よりいっそう開放的なものにする。前後半ともに、音と音の間をたっぷりとあけ、ゆったりとしたテンポで静かにスタートしたソロ演奏は、後半のクライマックス部分にさしかかると、フレーズとフレーズの間が切迫したひとつらなりのシークエンスを描き出すようになり、激しいアルコ演奏や、力強いフィンガリングが生み出す連続パターンは、パセティックな感情を帯びはじめる。それでも感情はなお色彩のひと刷毛であり、クライマックスが音楽の解放点になることはなく、演奏の静かなたたずまいは一貫して崩れることがない。そぼふる雨の日にふさわしい弦楽のソロ・パフォーマンスだった。

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阿佐ヶ谷ヴィオロン