2012年5月28日月曜日

鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その9



鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート
ELECTRICAL PARATE: PART 9
日時: 2012年5月27日(日)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(violin, electronics) 鈴木 學(electronics, 元野菜)
ゲスト:古池寿浩(trombone, electronics)
問合せ: TEL.050-3309-7742(大崎 l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 木下和重と鈴木學によるエレクトリカル・パレートの第9弾は、デュオにとって共演歴の長いトロンボーンの古池寿浩を特別ゲストに迎えてのライヴ・パフォーマンスとなった。演奏者がひとり加わるだけで、スカスカだった音響機器の配置はぐっとにぎやかなものになったが、古池は経験の深いエレクトロニクス奏者というわけではなく、それどころか、ライヴがはじまっても、音響機器の取扱説明書を見ながら音を出しているような初心者の状態だったため、アンサンブルの厚みにさしたる変化はなかった。デュオのマンネリ化を打開するゲストの必要性と、エレクトロニクス演奏が高度に専門化したり、うるさ方の鑑賞に堪えるほど作品化したりすることを回避したいという欲求が、エレクトリカル・パレートの演奏を、いわばダブルバインド状態に置くなかで白羽の矢が立てられたのが、木下和重が意図するパフォーマンスの機微を心得ている古池寿浩だったということなのだろう。エレクトロニクス・デュオがもっている質感を、先に「野生のエレクトロニクス」というような言葉で呼んだことがあるが、生音であれ電子音であれ、響きをこの物質感のようなものから引きはがしてしまわないために、それこそケージ的な戦略を立てるというのが、木下ならではの音楽の手法となっている。これはもう感覚化された思想問題のようなものといえるだろう。主催者が決して解説することのないこの音楽センスは、ループライン・サークル(とここではあえて言わせていただくが)の共通感覚として分有されているものである。

 私たちはしばしば誤解しがちなのだが、これは音楽に対する理解の問題ではなく、あくまでも戦略の問題である。換言すれば、そこでどのようなエレクトロニクス音楽が演奏されたかということではなく、音楽の前提となる響きの生態において、どのような共通感覚が創造されているか(あるいは創造にしくじっているか)ということの問題といえるだろう。同じような演奏の反復によって、閉じていってしまう響きの地層に足をつけておくため、木下が採用しているのは、演奏を成立させている音楽構造そのものをいじるのではなく、音楽構造を脱臼させるような要素の採用──すなわち、どんなふうに変わるかは事前によくわからないものの、とにかくこれまでになかった出来事をひとつ演奏に足してみるという手法である。それは概して音楽の外部にある要素であることが多く、それだけに効果のほどは(おそらくやっている当人にも)よくわからない。そこに「私は変わったと感じた」という観客の証言が求められるゆえんであるが、それもまた主観(的感覚)の束にすぎない。そもそも新たにつけ加えられた要素を出来事として感じていない観客には、最初からなにも生じなかったことになる。この日のライヴでも、音響機器を乗せたテーブルの隅になにげなく置かれた金剛仏や恐竜を、誰がコンポジションとして感じただろうか。10人が10人とも、そこに無関係という関係しか見いださない。しかしおそらくこれは、木下にとって、古池寿浩をゲストに迎えるのと同じことなのではないかと思われる。

 効果のほどはわからない。実際に受けた印象からも、なにが変わったというほどのこともないような気がする。それでもかつてはそこになかった出来事がいまは存在しているのだから、私たちは意識の隅でそれを感じて、エレクトリカル・パレートの演奏をこれまでとは別のものとして経験しているはずである。ここで言葉によってなんとか示そうとしている変化は、聴き手の意識が意識化することのできない領域、すなわち無意識の領域で起こっているものであり、それは音楽鑑賞をはみ出す身体的なレベルを操作することによって生じている。意識化できない変化を意識化するためには、無意識をのぞきこむための特殊な偏光レンズをもつ必要がある。木下がなにげなくしていること。それは音楽的なことと(とりあえず)関係がないために、私たち(の意識)は無視してしまうが、そうした出来事からじわじわと滲み出してくる何事かを、わからないままに、けっして見逃がさないことだろう。おそらくはそれが変化の実質ということになる。エレクトロニクス音楽だのノイズ・ミュージックだのを聴こうとして訪れた音楽ファンにとって、これはかなりやっかいな作業ではある。私たちが実際に聴かされているものは、音楽であることは確かなのだが、なにかもっと別のものだからである。

 ストップウォッチを使い、前後半それぞれ30分間おこなわれた第二部の終わり近く、不慣れな音響機器を操作するまどろっこしさから、古池寿浩はエレクトロニクス演奏を放棄し、グリーン色のトロンボーンを生演奏して、シンプルにして豊かなサウンド・アンサンブルを構成した。それにつられたのか、木下和重もヴァイオリン弦を弓の先端でカタカタとはじくノイズ演奏をしはじめると、木下の音楽戦略の対極にあって、盤石のエレクトロニクス演奏をする鈴木學もまた、音響機器の自動演奏に身をゆだねるのではなく、つまみ類に指を置いたまま、極めて操作性の高いノイズ演奏をすることになった。これは音響機器を楽器として扱ったということを意味するだろう。すでに指摘したように、エレクトロニクス演奏においては、電子音がそこに連続的にあらわれることを可能にする枠組みのループそのものが、大きな意味生成の場のひとつと考えられるのだが、そうした枠組みをはずれて、即興的なアンサンブルのなかで演奏が構成されたのである。これはまさしく古池効果というべきものだろう。テーブルのうえの金剛仏や恐竜はどうだったか? 鈴木學の出すハーシュ・ノイズが、まるで恐竜の声のように聞こえたかって? そんなことは微塵も思わなかったが、エレクトロニクス演奏がもっているアブストラクトなイメージを、視覚的に裏切っていたくらいのことはいえるのではないかと思う。


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